不動心という言葉がある。武道・仏教で出てくる言葉で、意味は常に心(本心)のままに生きる事と解釈している。俗に言う滝の心。
感情を表に出す事がいけないのではなく、感情を1秒も2秒も引きずるから自分の本心が判らなくなり嘘になる。滝から落ちる水滴は、右にいったり、左にいったり、上に跳ねたり定まらないが、重力がある限り、滝水は常に上から下へ流れる。心を開放するからこそ、心は常に変化しながら潜在意識化にある願望に向かって流れる。そしてブレない。だから変化しているから打ち込む隙が無く、不動。まさに「動中静・静中動」。
ただ、この生き方は、本音が見える分だけ、嫌悪感にかられる時がある。
後で振り返った場合、本音が、自分の立場を守ろうとしていればその通りの発言・行動になっているし、テレを隠そうとしていればその通りの発言・行動になっているし、意固地になればその通りの発言・行動になっている。でも、自分が持たなければいけない本心は、<眼に前にいる企業・人に如何に役に立てるか>そこに徹していなければならない。
頭の中ではなく、その一心で、六根(眼・耳・鼻・舌・心・意)を澄まし、三世(過去・現在・未来)・十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏)を渡り歩かなければならない。
昨日・本日の2日間、振り返ると徹しきれていない自分がいる。それが悔しい半分、情けない半分だろうか・・・未だ徹しきれない半端な自分がいる。